人間の本質は「自律」か?「他律」か?
- カテゴリ:自己申告型給与制度
いつもありがとうございます。生きがいラボの福留です。
前回は、会社と社員さんの関係性がパートナー関係になるには、一人ひとりが「自律」した価値観になることが必要だと書きました。
給与決定プロセスを「自律」というコンセプトで設計すると、おのずと「自己申告」になると私は考えています。
そして、自己申告型給与制度の設計&運用のサポートをさせていただくなかで、「他律」から「自律」への変革する社員さんをたくさん見てきました。
その経験から、他律的な考えをしている人でも、きっかけによって自律的になれるという確信があります。
前回の記事
「自律するとはどういうことなのか?」
人間の本質は自律的
自律した価値観を持つことは、非常に難しいことだと感じる人がいるかもしれません。
しかし私は、人間はそもそも自律的だと感じています。
人間の本質は、チャレンジ精神と好奇心にあふれていて、
「自分で考えたい」
「自分で決定したい」
「新しいことにチャレンジしたい」
という欲求を誰しもが持っているように思います。
私はこのことを、息子に教えてもらいました。
私には2人の息子がいますが、偶然ですが長男が寝返りに成功する瞬間に立ち会うことができました。
寝返りに成功する場面を見た人は分ってもらえると思いますが、赤ちゃんにとって寝返りをすることは、とんでもなく高いハードルです。
何度も何度も、何日も何日も失敗を繰り返します。
汗だくになり、息づかいも荒くなりながら、何度も何度もチャレンジします。
そして、何日も挑戦と失敗を繰り返した末に、ようやく寝返りに成功する瞬間を迎えるのです。
私は、息子が何度も失敗とチャレンジを繰り返し、それでもあきらめずに寝返りに成功した姿に、感動を覚えました。
それから成長するにしたがい、チャレンジすることが段々と高度化していきました。
はた目から見ていると「まだ絶対無理だろう」というようなことでも、何度もチャレンジを繰り返して、できるようになっていきます。
長めの出張から帰ってくると、息子の成長に目を見張ったものです。
出張前には全然できなかったことが、出張から帰ってきたときには、当たり前のようにできるようになっていることがあるのです。
おそらく、何度もチャレンジを繰り返して、自分のものにしてきたのでしょう。
また、俗に言われる「イヤイヤ期」も、人間の本質が自律を求めることを私に教えてくれました。
人間は本来、「自分で決めたい」「自分でしたい」という欲求を強烈に持っているのです。
人間の本質は自律的で、現在は他律的な言動が目立つ人でも、何かのきっかけがあれば人間が本質的に持っている自律性が湧き上がってくるのだと思います。
行き過ぎた自己責任論
ここまで「自律」について扱ってきましたが、私はすべてを自己責任で片づけるつもりはありません。
行き過ぎた自己責任論は、失敗した人や(好きな言葉ではありませんが)社会的弱者といわれる人を切り捨てる発想にもつながります。
たとえば、新しい価値創造のために斬新なビジネスに取り組んだ人がいたとしましょう。
懸命な努力の甲斐もなく事業に失敗してしまったとき、過剰な自己責任論を当てはめると、失敗したのはすべて本人の責任ということになります。
新しいことに果敢にチャレンジした勇気は、無視されてしまいます。
事業に失敗するのは事業家に原因があるのは当然ですが、果敢にチャレンジした勇気は賞賛されるべきだと思います。
しかし時として、失敗したのだから過酷な状況に陥ったとしても仕方がないということにもなりがちです。
あるいは、十分な貯蓄をしてこなかった高齢者や、就職先の見つからない若年層、収入がない生活保護受給者なども、過剰な自己責任論を当てはめると、そういう状況に置かれているのも本人の責任となってしまいます。
失敗した人や社会的弱者といわれる人たちに冷たい目を向けることが、社会のあるべき姿だと言えるでしょうか。
私は違うと思います。
これらのことを鑑みて、自己責任の原則を根幹に置きながらも、「思いやり」の精神を持って社会や企業を運営することが必要だと思います。
しかし、あくまでも個人の内面は「自律」であることが求められると思っています。
もしも、思いやりを受ける当事者が、「助けられるのが当たり前」という意識であれば、それはもはやワガママと言わざるを得ないでしょう。
一人ひとりが自律した価値観を持った上で、お互いを思いやる社会や企業をつくっていく
ことが大切だと思います。
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